沖縄出身の父を持つフィリピン残留日系人に関する情報

ページ番号1035791  更新日 2025年7月18日

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フィリピン残留日系人とは

 フィリピン残留日本人とは、19世紀末から第2次世界大戦終結までの間にフィリピンに渡った日本人移民の子で、戦争によって父あるいは両親と離れ離れになり、現地に残された人びとです。戦前、フィリピンに移住した日本人は、努力の末、豊かな移民社会を築きました。その数は最盛期には約3万人にものぼりました。フィリピン人女性と結婚し、家族をもった日本人も多くいました。当時日本もフィリピンも父系主義の時代。両親から生まれた子は本来日本国籍を保持していました。
 ところが日本軍の侵攻に伴い在留邦人は戦争協力を強制され、日本人移民社会は国家総動員体制に組み込まれました。隣人であり、親戚であり、同僚であったフィリピン人と、敵同士として争うことになりました。適齢期に達していた2世たちも軍人軍属として現地徴用されました。
多くの1世が戦争で命を落とし、生き延びた1世は、日本に強制送還されました。子どもたちの多くはフィリピン人母とともに残されました。終戦時、両親ともに亡くし、文字通り、孤児となった2世も少なくありません。
 戦後の反日感情の強いフィリピンで、日系2世たちは日本人であることを隠し、日本名をフィリピン名に変え、かろうじて生き延びました。教育を受ける機会に恵まれず、そのため多くの日系人家族はフィリピンの貧困層に属しています。年頃の2世女性はフィリピン人や中国人と結婚することで迫害をまぬがれ、生活の糧を得ました。夫を失った1世妻の多くも生活のために再婚しました。一方、中には夫の帰りをずっと待ち続けた人もいます。
 反日感情が和らいだ80年代に入ると、日系人自らがフィリピン各地で日系人会を組織し、存在の証を求めて立ち上がりました。90年代には日本の民間ボランティアの協力で2世の身元確認や国籍確認、3世、4世の定住ビザ取得の道が開けました。しかし、戦中戦後の混乱の中で、父親につながる手がかりや書類がない人たちも多く、フィリピンに残留した3800人余りの2世のうち900人余りが未だ身元未判明です。また、「戸籍」がないために「事実上の無国籍状態」におかれた2世が約600人いると推定されます。
 

沖縄出身フィリピン残留日系人情報

日本国籍を希望している沖縄出身の父を持つ2世に関する情報を掲載します(詳細はPDFファイルをご確認ください)。

お心あたりがある方は、保護・援護課までご連絡をお願いいたします。

残留日系2世氏名

記憶している父親の氏名

父についての情報

ウエハラ レオノラ

(日本名 シゲコ)

ウエハラ タクイシ

(タクイチ、トクイチ、タクシ、タケシ

の可能性あり)

戦前はネグロスオリエンタル州のシキホール島で漁業、

魚の仲買をしていた。

同島出身のフィリピン人女性との間に1940年にレオ

ノラ(シゲコ)、1941年にオスカー、1943年7月に

キンタロウという3人の子(一女二男)が生まれる。

戦争中、安全のためドゥマゲティ市の日本軍駐屯地の近

くで暮らし、駐屯地の日本軍兵士とも交流があった。

ヤカビ タマイ

(日本名 タマイ)

タマエの可能性あり

ヤカビ ミタロ

(姓はヤカベ、名はカミタロウ、

カメタロウ、タロウの可能性あり)

戦前はスルー州ホロで真珠の他の日本人とともに養殖の

仕事をしていた。

スルー州ホロ島出身のフィリピン人女性と婚姻し、

1932年にタマイ(一女)が生まれる。

挙式には多くの住民と日本人の友人たちが出席した。

テルヤ ビルマ

(日本名 シズエ)

テルヤ (名は不明)

戦前は、ダバオデルスル州ディゴスでアバカ栽培と

ラミー栽培をしていた。

そこで、オサミス州出身のフィリピン人女性と結婚、

1942年6月にビルマ(一女)が生まれる。

 

ウエハラ パムフィラ

マリアトミコ(次女)

エスタートヨコ(三女)

ウエハラ メイトク

戦前はパラワン州リナパカン町で漁業に従事し、3人の

子どもをもうけた。

開戦後、家族でマニラへ移動しマニラで末っ子が

1944年に生まれた。マニラには父の親族がいたよう。

 

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このページに関するお問い合わせ

沖縄県 生活福祉部 保護・援護課
〒900-8570 沖縄県那覇市泉崎1-2-2 行政棟3F(南側)
電話:098-866-2428 ファクス:098-866-2758
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